■ 2005.6.1 Wed.
 カッコウやホトトギスや鶯や、いろいろな小鳥の声を思い出しながら、お昼過ぎの新幹線で大阪へ。車中で「マタイ受難曲」のスコアを点検。通奏低音の楽器の配分も確定する必要がある。床屋に寄ってからフロイデ合唱団の練習に行く。第1部のほとんど終わりまでを細かく練習。合唱団の人たちの努力、忍耐、集中力、熱意には本当に頭が下がる。我々だったら、こんな風には出来ないだろうと亀井正比古さんと話し合う。遅い新幹線で帰京。帰宅は0時を大分過ぎた。

■ 2005.6.2 Thu.
 南の島で元日本兵2人が見つかったのかも、というニュース。ガダルカナルで餓死したと言われている遠縁の叔父を思う。私たちを可愛がってくれた歯科医師志望の若い叔父の名前が出てこないかと、どきどきしながらテレビを見る。遠縁の親戚でもこうなのだから、ご親族はどんな思いをしておられるだろうか。60年経っても戦争は終っていないのだ。

■ 2005.6.3 Fri
 午前、五反田の病院で夫婦で採血と採尿。午後2時半、谷野先生の病院で家内の視野検査。

■ 2005.6.4 Sat
 午後、巣鴨へ出かけてジェラール・プーレさんにお目にかかる。夕方、最近全く経験したことが無かったような猛烈な夕立。

■ 2005.6.5 Sun.
 1960年6月初旬、私はNHK交響楽団派遣という形で留学していたヴィーンから突然呼び戻されて日本に戻ってきた。予定より半年早かったのだが、それは日本のオーケストラとして初めての世界旅行の準備の為であった。総てが「どうしたらいいのか見当もつかない」というような状態の中で、ただ猛烈な速度で準備が進んでいたが、有馬大五郎先生だけが、あらゆることをご存知で、従って誰よりも大きな心配、深い悩みを抱えておられたに違いない、と今になって思う。7月の初め、有馬先生が突然「日本のアンコール曲を作曲せい」とおっしゃる。私と岩城宏之はN響世界旅行用のアンコール曲を探して長い時間をかけて日本人作曲のスコアを読み漁り、テープを集めて聴いたりしたが、たくさんの秀作はあっても、どれもがいわば「決め手」に欠けていると思っていた。しかし、だからといって私に何かができるとは思ってもみなかったが、こうなっては何かをやってみるしかなかった。私の手元にはその時、この年(1960年)の1月、有馬大五郎先生がヴィーンに来られて私にさりげなく手渡された小型の日本民謡集の楽譜があった。それは特別なものではなく、ごく安っぽい薄っぺらな日本民謡集だが、表紙裏にも裏表紙にも、どのページにも、有馬先生の分析や意見のメモがごく小さな文字でびっしりと書き込まれているのだった。まるで神の啓示を受けたように私はその民謡集を机上に開いた。それまで意識的に日本の素材を使おうとおもったことは一度も無かった私は有馬先生に導かれて日本の素材と正対した。ヴィーンでの生活から、私は世界のどんな音楽家も「お国振り」つまり自分の生まれた土地に根ざした音楽を演奏する時が特別に素晴らしいことを実感していたから、日本のオーケストラが外国に出ることがあるなら、日本の素材できらびやかで豪華な音楽をどうしても演奏するべきだと思っていた。有馬先生の民謡集を何度もひっくりかえして探したが、どう考えても八木節がたった一つの候補である。これを最終部分の素材にすることは真っ先に決まった。その他の部分をどうするか、あれこれと考えているうちに、私が生まれ育った東京・牛込の家では毎朝、ご近所からキャンキャンキャンキャンと甲高い拍子木の音が聞こえていたこと、時折、町を歩いていく僧侶たちの鳴らす団扇太鼓の音も忘れがたいことを思い出した。冒頭はこれにする。そして大相撲の打ち出しの太鼓も鮮やかな印象を刻むに違いない。八木節の直前にゆったりとした旋律的なものが欲しいが、それは「民謡集」から実に魅力的な信濃追分を探し出した。その他にもいくつかの素材を拾い出し、それを並べたり組み合わせたり、また並べ替えたりした。それを一週間ほどでオーケストラ用の小品にしたのが「ラプソディ」である。作曲前も作曲中も有馬大五郎先生にご相談するゆとりが無かった。岩城宏之も勿論、この作品について事前には何一つ知らなかったし、これを「ラプソディ」と命名したことも知るはずも無かった。私は民族的な素材で自由な形式の、なかば即興的な作品、という意味でこの名前をつけた。初演は岩城宏之指揮のNHK交響楽団で、直接外国旅行用と判っているから、オーケストラも指揮者も意気込みが違った。練習初日に岩城宏之の提案で「おてもやん」を素材に使った部分が冗長なので削除した。この時から岩城宏之は私の作品の数々を指揮してくれるようになる。「(こんなに演奏してるんだから)作曲者よりオレのほうが作品を知っている」というのが当時の彼の言い分であった。

■ 2005.6.6 Mon.
 午後の新幹線で仙台へ。5時前、青年文化センター・コンサートホールに出かけて「1812年」の鐘の音の録音と大砲の音を聴く。その後、「1812年」で共演してくれる東北福祉大学吹奏楽部の人たちの練習。きちんと練習してある。仙台フィル・トロンボーンの松崎泰賢さんの日常の指導が素晴らしいに違いない。

■ 2005.6.7 Tue.
 午後1時、仙台フィル「定期」の練習初日。「定期」に限らず、どの演奏会も練習開始の数日前からいろいろ心配になってくる。楽譜の見落としや読み違いは無いか、現実の条件に合わない思い込みは無いか、テンポや強弱の設定は作品に即しているか、オーケストラの音楽家たちが納得して演奏するのに必要な準備はできているか、・・・・。考え出すときりのない不安だけがどんどん増える。でも練習の初日は勿論、やって来る。だから、今日もくたくたになった。疲れた。明日はもう少し緻密な練習をしたい。

■ 2005.6.8 Wed
 練習2日目、ブラームス「3番」が如何に難しいかを痛感する。素晴らしい音楽だからオーケストラひとりひとりの自発性が、もっともっと出てこなければならないのだが、私の指揮がそれを邪魔していることはないのだろうか。チャイコフスキー「弦楽のセレナード」も本来は指揮なしの演奏が理想だろう。どんどんみんなの表情がでてくるようにしたい。夕方からホテル近くのスタジオを拝借して佐藤明子さん、家内と「マタイ受難曲」をすこし勉強する。