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■ 2004.6.7 Mon. 11時開始で予選第3日。昼食を挟んで今日も12人の演奏を聴き終わったところで、11名の審査員がそれぞれ自分の採点を点検確認して提出。事務局が別室で集計、平均点を出して、その結果を審査委員会に報告。セミ・ファイナルに進むことができるのはオーケストラとの練習時間の制約もあるから12名が限度。今回も11、12番目とそのすぐ次の13、14番目をどう考えるかと実に悩ましいのだが、点差、数字の上の差ははっきりあるのだから、これがコンクールというものと考えるべきだろう。夜7時半から生憎降り出した雨の中を出かけて親しい人たち10人ほどで楽しく食事。 |
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■ 2004.6.8 Tue. お昼前の新幹線で帰京、初台のオペラシティに直行。「21世紀オーケストラ研究会」というお集まりで1時間ほどオーケストラの日常の様々をお話する。東京はいかにも梅雨らしく、じっとりと蒸し暑い。今日は朝から、あまり愉快でないことにいくつか出合ったが家内とは、こういう日もあるさ、と言い合った。 |
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■ 2004.6.9 Wed. お昼過ぎの新幹線で大阪へ。用事を済ませてから、夜はフロイデ合唱団の練習。今日は先ずフォーレ「レクイエム」を一通りやる。発音や音程や区切り方など細部も整えながら進んだ。合唱団は声も音楽もずしりと充実しているし、反応も素早い。モーツァルトも少し練習したがフォーレを散々練習した後だから少々疲れ気味だった。新幹線で帰京。帰宅したら日付が変っていた。 |
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■ 2004.6.10 Thu. 小泉がブッシュの言いなりになってイラク征伐の「大義」をほめたたえ、多国籍軍に参加すると言明した。「武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、自らを合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、かぎりなく美しく感じる。」と加藤周一さんが1979年に書いておられる。また1989年の文章の中には「いくさで殺された死者との連帯感は、いくさが天災ではなかったということと切り離すことができない。戦争を引き起こしたのは『わが国の軍部と政府』であり『国家神道的イデオロギー』であり、その戦争を『熱狂的に支持した日本国民』である。生き残った者がその全体に対してはっきりした態度を取らなければ、それは死者への裏切りということになるだろう。」とある。1931年生まれの私はかろうじて戦争体験者の端に連なる。今沈黙していてはならぬ、今語らなければならぬと思う。午後の新幹線で仙台へ。アリアンス・フランセーズ仙台前館長のニコラ・バロニエさんご夫妻とその小さなお嬢さんなどと夕食。音楽の話、リヨンの広いお宅の話、コンクールの話などたくさんおしゃべり。 |
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■ 2004.6.11 Fri. 14時からピアノ部門セミ・ファイナルの始まり。今日からまた仙台フィルの厳しい日程の連続である。プロコフィエフ「3番」を2回。ラヴェルを2回。同じ作品でも奏者によってこうも違うものかと改めて演奏の厳しさ、難しさを痛感する。夜は審査員全員と市長主催の夕食会。 |
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■ 2004.6.12 Sat. 14時、セミ・ファイナル第2日。たった一人バルトークの「3番」を弾いた人を私はとても面白いと思ったが、これは勿論そのままコンクールの審査結果には繋がらないだろう。若いピアニストたちの熱演の連続は確かに興味深いのだが、真剣に聴いているから疲れる。夜は向山の上の古い店で夕食をいただく。 |
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■ 2004.6.13 Sun. 14時、セミ・ファイナル第3日、最終日である。最初の人がラヴェルを弾いた後、プロコフィエフの「3番」が3人続いたから聴いている方は面白いがオーケストラの負担は大きい。演奏終了後直ちに採点の集計、審査委員会、そして結果の発表。ここまで来ると誰がファイナルに残るか残らないか、その差は非常に小さい。コンクールというのは本当にむごいものである。親しいご夫妻のお招きで久しぶりに心も身体もゆったりと休まる時間を過ごす。お庭で採れたさくらんぼを頂戴して帰る。 |
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