■ 2002.8.16 Fri.
 12時55分発の飛行機で韓国へ。済州島への直行便が満席でソウル経由の切符を買ったのだが、荷物も預けっぱなしで簡単に乗り換えられると思ったのはこちらの勝手な思い込みで、そう言われてみればソウル→済州島は国内線だからソウルで入国手続きを済ませて荷物をいったん受け取り、改めて国内線に乗り換える、ということであった。ヤレヤレ。それでも18時35分に済州島着。旧知の韓国の指揮者が迎えに出てくださってタクシーでホテルへ。若い指揮者たち20人ほどと、その先生方(大学教授や現役の指揮者たち)10人ほどが夕食の時間をずらせて待っていてくださった。床にじかに座る韓国式のレストランで美味しい食事。何よりほとんど全員が昨年も、ここ済州島で会っている人たちで楽しい。

■ 2002.8.17 Sat.
 今日から韓国指揮者協会の第2回夏のセミナー。10時からオーディション。これは、このセミナーに「積極参加」できる人を選ぶ、つまり毎日実際にオーケストラを指揮するかたちでセミナーを受講できる人を選ぶもの。ハイドンの交響曲の第1楽章、ゆっくりな序奏からアレグロの主部に入るまでをハラ・オーケストラという出来たばかりのオーケストラで指揮するのを見る。10人の志望者全員に大きな能力の差は認められないので先生方ともご相談して10人全員を合格とする。
 午後は自由時間。昨年の春、イム・ウォンシク(林 元植)先生から突然電話で「済州島でこういうセミナーがあるんだけど参加しないか」と誘ってくださったのがきっかけで第1回から仲間に入れていただいたわけだが、昨年は健康そのものだったイム先生が、その見事な日本語で全部通訳をしてくださったし、あちこち連れ歩いて私たち夫婦に美味しいものを食べさせてくださったりした。あの大家にそんなことをしていただいたのは恐縮の限りだが、今年はご病気でお姿が見えないのは心配である。どうか元気で戻ってきていただきたいと祈るばかりである。

■ 2002.8.18 Sun.
 午前中、少しピアノをさらう。2時〜5時、昨日のオーディションで全員が指揮したハイドンと、モーツァルト「魔笛」序曲を2台のピアノで指揮してもらう。自分がどのように腕を振るかが気になって、何を、どのように演奏したいか、までなかなか行かない。夕食後、7時〜9時、同じくピアノでベートーヴェンの「5番」。勿論、とてつもなく難しい。ホテルに戻って家内とビールを飲む。

■ 2002.8.19 Mon.
 今年はイム先生の提案で済州島の済州(ジェジュ)交響楽団で演奏会をやる約束なので午前はその練習。しかし、韓国指揮者協会会長で私の友人でもあるパーク・ウンソン氏が20日に管楽器の協奏曲ばかりの音楽会があり、その中にジョリヴェのトランペット協奏曲もあるというのに練習は当日の会場練習だけ、と聞いては放っておくわけにはゆかぬ。初めの1時間をプレゼント。11時過ぎから12時45分までの間に、ともかくベートーヴェン5番、モーツァルト「後宮よりの逃走」序曲、モーツァルトのコンサート・アリア Kv505をやる。このコンサート・アリア、まるでピアノ協奏曲風なピアノが入っている珍しい楽器編成だが、それを自分で弾くことにしたので昨日ピアノをさらったわけである。勿論、そんなことでうまくゆくわけはない。
 昼食後2時〜5時、ハラ・オーケストラで全員が「魔笛」序曲を振る。特に序奏のヴァイオリンがシンコペーションになる部分でテンポが遅くなってしまう人が多い。それに内容が劇的であることを忘れて強弱の表示にとらわれている。夕食後6時〜9時、ブラームスの「2番」をピアノ2台で。第1楽章と第3楽章が課題だが第1楽章の緻密な構成とオーケストレーションを読みきれていない。今夜もホテルへ帰ってビール。

■ 2002.8.20 Tue.
 今朝も練習だがパーク・ウンソン氏に1時間半プレゼントして11時半過ぎから1時前まででひと通り練習した。2時〜5時、若い指揮者たちはハラ・オーケストラでベートーヴェン「5番」。どの部分をとってもひどく難しい。当たり前である。特に第1楽章冒頭で何度も現れるフェルマータの次をどのようにするか、考えてきたことと現実に起こることをきちんと見極められない。
 7時〜9時、ピアノで全曲目の最もうまくゆかない部分を取り出して、何度もやり直してもらう。少しわかりかけている人たちもあるだろうか。指揮を始める時はまずオーケストラに真っ直ぐ正対して立つ、と私は思っているが、妙に格好をつけて斜に構える人が多い。他人から(聴衆から、というよりまずオーケストラの人たちから)どのように見えているかを考える必要があるだろう。それを想像する力も無いようでは指揮はできない。今夜もホテルへ戻って家内と2人でビール。

■ 2002.8.21 Wed.
 午前、初めて「フルタイム」で自分の音楽会の練習。昼食後2時〜5時、ハラ・オーケストラでなるべく中断しない練習を全員にしてもらう。夕食後7時〜9時、また2台のピアノで細かいチェックをする。

■ 2002.8.22 Thu.
 パーク・ウンソン氏の演奏会は夕べ無事に終ったそうである。よかった。9時半から12時半、若い指揮者たちがハラ・オーケストラと今まで練習してきたものを全部、少しずつ分担して練習する。明日(最終日)何人かを選んで終了コンサートをやる予定だから、その選考の意味もあるので、いつもにも増してみんな緊張気味。昼食をとりながらパーク・ウンソン氏を初め先生方とご相談して苦労の末、6人を選ぶ。正直なところ時間的な制約がなければ10人全員に最後の経験をさせたかったが致し方ない。
 15時から今夜の自分の音楽会の総練習。不思議な響きのホールである。モーツァルトの序曲やベートーヴェンの「5番」はともかく、コンサート・アリアが私のピアノがひどいからタイヘン。家内はハラハラで自分の歌どころではないだろうし、オーケストラが一応拍手などしてくれると余計具合が悪い。音楽会は19時30分開演。全体の演奏時間は短い音楽会で、アンコールにブラームス「ハンガリー舞曲第5番」をやる。コンサートマスターはノヴォシビルスク・フィルハーモニーにいたことのある若者で素晴らしい音楽家だった。終演後、すぐ隣のレストランで小さなパーティー。イム・ウォンシク先生の回復を祈って、先生への御礼もこめて全員で乾杯した。

■ 2002.8.23 Fri.
 久しぶりに少々朝寝坊。14時から6人の若い指揮者たちが演奏曲順に会場練習。昨夜の私の演奏会と同じホールである。

1. モーツァルト;「魔笛」序曲、なかなかしっかり楽譜が読めてきた。

2. ブラームス;交響曲第2番・第1楽章、細かい部分はともかく、自分の意図をはっきりオーケストラに伝えているのは立派。

3. 第3楽章、作品の繊細さ、微妙さについてゆけない瞬間が外見からもわかってしまうのは惜しい。

4. ベートーヴェン;交響曲第5番・第1楽章、そつなく指揮できるようになったのは大進歩だが、この緻密で壮大な構築物をどうしたいのかを少しは表現したい。

5. 第2楽章、欠点はないし音楽的でもある。もっと積極性が欲しい。

6. 第3、第4楽章、初日のオーディションでは最も可能性を持っている指揮者かと見えたが、今日は全くダメ。基本的な勉強をやり直す必要があるかもしれない。

演奏を終って全員で食事。暑い。

■ 2002.8.24 Sat.
 10時〜13時、受講者全員と車座になっていろいろと雑談。話したいことはたくさんあるが、何から話したら良いか、と迷うことも多い。昨年のイム・ウォンシク先生に代わって今年は私より1年先輩の、リー・ナムスー先生が素晴らしい通訳をしてくださった。先生ご自身が音楽家であり、優れた教師であり、大変な教養人でもあって私のようなものの面倒を見ていただいたのはもったいない限りであった。
 私たちは3日ほどここに滞在して初めての完全な休暇をとる予定だったが、イム・ウォンシク先生が心配で急にソウルへ行くことにした。夕方の飛行機でソウルへ。空港にパーク・ウンソン氏の奥様が迎えに来てくださっていて4人で病院へ直行。先生はもうお話になれる状態ではないが、きっと私たちの声はお聞きになれるかと考えて若い指揮者たちのことなどをご報告する。私たちが伺うことをご連絡してあったので、ピアニストのシン・スージョン先生が待っていてくださって、私たちの宿泊するホテルで5人で夕食。

■ 2002.8.25 Sun.
 朝、シン・スージョン先生が迎えに来てくださって病院へ。昨夜私たちがお邪魔した後で容態が悪くなったということで、口と鼻全体を覆った酸素マスクの下で「激しく戦っている」というような呼吸をしておられる。奥様もつきっきりで看病しておられるからお倒れにならないのが不思議なほど疲れておられるし、ご長女の憔悴もいたいたしい。暫く先生のおそばにいて手を握ったり足をさすったりしていたが、私たちがいることがいろいろお邪魔かもしれないとも思えておいとまする。夕方の飛行機で済州島へ戻る。休暇のはずが何とも不思議な日になった。

■ 2002.8.26 Mon.
 講習会をやっていた町中から車で約1時間、この島の反対側にあたる所、リゾート地帯である。海がすぐ目の前で、お天気がよければ美しいハラ山も見えるはずだそうだ。私たちはともかく静かに何もしないで過ごしたいからこの景色が気に入っているが、朝9時過ぎ、パーク・ウンソン氏から電話。今、イム・ウォンシク先生が亡くなられたという。韓国の習慣でご葬儀は5日目の30日だとのこと。服装の用意などもあるから一度日本へ戻って29日にソウルへ戻ってくることにしようかと話し合う。正午、家内の両親が日本から到着。今まで一緒に旅行したこともないし、勿論一緒に海外に出たことも無いから一度4人で遊ぼう、というはずだったのだが、私たちがイム先生のことでいろいろな連絡を受けたり、やや沈み込んだりしているので予定とは違った形になってしまった。それでも韓国の家庭料理風の夕食をくつろいで楽しんだ。

■ 2002.8.27 Tue.
 家内は母のお供でお昼前からゴルフに出かけた。私はイム先生への弔辞を書く。夕方、4人でショッピングに出かけて気に入った靴を見つけて買ってしまった。

■ 2002.8.28 Wed.
 午後の飛行機で日本へ。名古屋に2泊してから東京へ戻るつもりでいたから、その切符を変更せずに名古屋着。名古屋に喪服は置いていないから、貸衣装の黒服を借りる。家内もいろいろな用意と荷造り。

■ 2002.8.29 Thu.
 早朝に家を出て9時半の飛行機でソウルへ。お昼過ぎにはホテル着。午後、東京芸大出身で藤原歌劇団でご活躍だったリー・インヨン氏がみえる。この方も見事な日本語をお話になり、藤原先生を初め旧知の方々の噂や古来の韓国と日本の文化的な繋がりについてのお考えを聞かせてくださる。ご自身はやむを得ない事情で明日の葬儀には出席できないが、私の弔辞は翻訳して通訳に渡しておくから、と持ち帰ってくださる。
 夕方、シン・スージョン先生が迎えに来てくださってイム・ウォンシク先生のお通夜に。何度か伺った病院の病棟のすぐ隣に、このような時のための大きなビルが建っていて何組かのお通夜が行われている様子に少々驚く。先生の遺影が飾られた祭壇の周りも、たくさんのご親族や関係の方々が食事をしておられる大広間も、贈られた花でうずまっている。花があまりに多くて、もう明日の式場にたくさん運んだということである。これが供養だから、と近いご親戚の隣に座ってお話を伺いながら軽い食事をいただく。日本の習慣と似ているのだなと思う。こうしていても、あの特別にお元気だったイム先生のことだから、特徴のある大声で話しながらヒョッコリ出てこられるような気がする。

■ 2002.8.30 Fri.
 ご葬儀はイム・ウォンシク先生が創設された芸術高校で行われる。シン・スージョン先生にお連れ頂いて私たち夫婦が30分以上前に学校に到着した時には、もうたくさんの人で玄関前が混雑している。葬儀は10時から講堂で。花に囲まれた大きな遺影の後ろ、舞台上にオーケストラと合唱が陣取っている。葬儀委員長は韓国芸術院院長。大統領からのものを初め、高名な政治家や芸術家、いろいろな学校や団体、オーケストラ、そして日本からの多数も含めておびただしい花が先生の遺影を囲んでいる。芸術院院長、韓国指揮者協会会長、韓国サッカー協会会長などの方々に混じって私も弔辞を読む。日本の音楽家を代表して先生に心から感謝を捧げた。オーケストラと合唱が心のこもった演奏をしていた。
 お昼前に式が終って、先生のご遺体を乗せた車が先生の創設された中学校に立ち寄るので私たちもお供した。小雨のふる校庭にテントを張って中学生たちのオーケストラが先生の作品を実に美しい、つややかな音で演奏していた。合唱も素晴らしい。イム先生の業績の大きさに改めて感銘を受ける。作品も叙情的で美しいものである。奥様が涙をこらえておられるのを見るのはつらい。墓地までお供する、と申し上げてあった私たちだが、それがどこにあるのか、全く伺っていなかった。車は走って走ってやがて1時間半ほど。北朝鮮との境界線のすぐそば、国道の脇から急な斜面で、まだ何の整備もされていない雑草を掻き分けて登ってゆく道、そこを喪服を着た人たちが1列になって登った。急に眺望の開けたところに出ると、そこがお墓であった。数人の若い人たちのブラス・バンドが賛美歌を演奏する中で、イム先生の棺が埋葬される。私たちも少しずつ土をかけた。イム先生のお生まれになったところがきっとここから望めるのだろうと思う。悲しい。

■ 2002.8.31 Sat.
 台風が近づいているのを心配しながら夕方の飛行機で日本へ。10時前、16日ぶりに東京の家にたどり着く。すぐにソウルのシン・スージョン先生から台風で無事に飛んだか、と心配の電話を頂く。